- 2023-1-17
- Artist (画家について), Artwork (芸術作品), Enjoy This (観てほしい絵画展)
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青木木米の作品を見に行くなら、ぜひ代表作や生い立ちについて知っておいてほしい!
2023年は没後190年という節目を迎える事もあって、サントリー美術館では「没後190年 木米」という特別展が開催します。木米は江戸時代後期に活躍した陶工で画家。京での活躍が目立つだけに、関東での知名度はどれほどなのかは分かりませんが、個人的に青木木米は超要チェックの人物!
【 没後190年 木米 】 ・期間:2023年2月8日(水)~3月26日(日) |
木米を知っている人も、あまり知らない人も、ぜひこの機会に見てほしい!もちろん見に行く以上は、より深く味わってほしいと思います。そのためにも最低限の知識はあった方がイイと思います。
なぜか?
その理由も交えて、代表作や生い立ちなど話していきたいと思います。
陶工?画家? 青木木米の代表作
元々私が木米を知った経緯は、テレビ番組で木米が取り上げられていたのがきっかけでした。鑑定士が木米の”如意(にょい)”を見るや否や、涙を流してしまう。本来なら冷静に分析判断しないといけない立場でありながら、そんな鑑定士の心を大きく揺さぶるだけの魅力があると感じたからなのです。
一体どんな作品を作ったのだろう?と気になりませんか。
現在重要文化財に指定されているものも多く、例えば上野にある東京国立博物館でも見る事ができます。
・総高23.0、径23.0×22.5、磁器、東京国立博物館所蔵
木米の一番の代表作は「染付龍濤文提重(そめつけりゅうとうもんさげじゅう)」になると思います。
提重(さげじゅう)とは、今で言う弁当箱の様なモノ。藍色と中国の雰囲気を醸し出す龍の模様。木製の提重はたまに見る機会もあるけれど、陶器というのは珍しい。陶器だけに果たしてどれほどの重さなのだろう?とちょっと気になったりもしますが、一度は使ってみたいと思ってしまう代物ですね。
現在は東京国立博物館が所蔵し、重要文化財に指定されている品。2023年にはサントリー美術館でも展示されるそうなので、これは特に要チェックの1つ!
※【 没後190年木米 】展:2023年2月8日(水)~3月26日(日)まで開催
・48.4×59.3cm、東京国立博物館所蔵
そしてもう1つ挙げるとするなら、それは「兎道朝暾図 (うじちょうとんず)」です。
この作品も重要文化財に指定されていて、現在は東京国立博物館に所蔵されています。山や川が描かれた山水画で、「染付龍濤図提重」と同様に中国風の作品です。当時(江戸時代後期)流行った中国文化が影響しているそうです。木米は若かりし頃に高芙蓉(こうふよう)の塾に通い、書画を学んだ経験があるだけに、筆の腕前も相当だったと言われていますが、それは作品からも感じられると思います。
もちろんここまでの知識で作品を鑑賞するのもいいけれど、もっと深く味わうなら、ぜひ生い立ちについても触れておいてほしい!そんなわけで、青木木米の生い立ちや作品を簡単ですが迫っていこうと思います。
青木木米の生い立ち・略歴
さて、生い立ちについて調べようと思っても、実のところ青木木米の書籍ってあまりないのが実情。それに雑誌で”2023年の注目美術展”で見ても、あまり記載されていないし…。なぜここまで注目されないの?というのがちょっと残念だったりします。個人的には、ぜひ見てほしい!というのが本音ですが、実際のところ”青木木米”ってあまり知られていないのかもしれないですね。
そんなわけで、木米の生い立ちについて分かりやすく話したいと思ったので、まず私の持っている手持ちの辞書「新潮 世界美術辞典」の説明を参考に、後半は自前の知識や色々と調べた内容を追加的に加えてみました。
木米(もくべい) 明和4ー天保4.5.15(1767ー1833)
江戸後期の陶工、南画家。性は青木、通称木屋佐兵衛また八十八、木屋の木と八十八をちぢめて木米と称した。青来、百六散人、九九鱗、古器観、聾米(ろうべい)などの号がある。京都鴨川べりの料理茶屋木屋に生れ、燃焼の頃から古器物に傾倒、高芙蓉(こうふよう)の門に学び文人的教養を身につける。寛政8年(1796年)木村蒹葭堂(きむらけんかどう)を訪ね、幾多の書籍や古器物にふれる。27、28歳から陶芸を志し、奥田潁川(えいせん)に師事したといわれる。紀伊(和歌山県)の瑞芝(ずいし)焼、加賀(石川県)の春日山窯などにも関与した。煎茶道具に優品が多く、ほかの種々の食器等も遺している。中国の白磁、青磁、染付や赤絵さらに交趾焼(こうちやき)の写しなどに巧みであり、しかも独自の作風を示す。絵画は多くはないが、新鮮な感覚と陶器の絵付にも似た艶やかな色感を示して高く評価される。特に文政年間(1818ー30)後半に最も多彩に花開いた。
出展元:新潮「世界美術辞典」
正直言って、この辞書の内容だけでも十分かな~と思うほどまとまっています。でも出来るならもうちょっと深堀するのもイイかな?と思い、以降は私なりに追加して解説やらコメントしていこうと思います。
「青木木米像」田能村竹田
(生い立ち・略歴)
明和4年(1767年)…
京都の鴨川べり、大和橋西北ほとりの茶屋「木屋」で生まれる。
名は八十八(やそはち)。陶工としての”木米”という名は「木屋」の”木”と八十八を縮めた”米”を繋げて”木米”としたのが由来。
木米の号の由来が興味深い!!
早速ですが、ここでちょっとした豆知識を話したいと思います。
木米はいくつかの号(現在でいうペンネーム)を持っていました。青来、百六、九九鱗、古器観、聾米など多数あり、名の由来が興味深いものもあります。例えば木米もそうですが、”百六”の名は木米の木の18と、米の88を足した数字が由来になっています。(18+88=106)
聾米(ろうべい)の名に至っては、”聾(つんぼ)”は耳の聞こえない事を意味しています。後々に話しますが、木米は晩年聴力を失ったと言われています。そんな自身の状態を号にしているわけですね。単なるペンネーム的な”号”だけれど、実は木米の生い立ちとも繋がっているのが何とも興味深いと思いませんか?
安永6年(1777年)…
高芙蓉(こうふよう)の門に入塾
儒学者で画家の高芙蓉から、木米は文学的な教養や書画を学びます。また同時に中国趣味から強い影響を受けたともいわれています。その後の木米の芸術観や素質はこの頃に培われたと言っても間違いないと思います。
寛政8年(1796年)…
木米30歳の頃、本格的に陶工の道に進む。
木村蒹葭堂(きむらけんかどう)の薦めもあって、奥田潁川(えいせん)に弟子入りする。潁川も木米と同じく、30歳を過ぎて陶工の道を進んだという共通点もあったようです。
そして程なくして京都の粟田口(あわたぐち)に、一文字屋の名義をかりて開窯します。
文化3年(1806年)…
加賀藩は九谷焼再興のため、京都から木米を招き入れる。木米は春日山(現在の卯辰山)に春日山窯を開く。
※九谷焼は江戸時代中期頃(1655年頃)に、加賀藩の政策として九谷村で生産されたのが始まりでした。しかし半世紀後に廃窯してしまいます。(この頃に作られたのは、一般的に”古九谷”と呼ばれています。)そして廃窯から約1世紀後、木米が春日山窯を開いた事がきっかけで、再び九谷焼が生産される様になったのです。程なくして春日山窯は廃窯しますが、木米の後継者が各地で活動し今に至ります。
文政7年(1824年)…
印刻”聾米(ろうべい)”が発見された事から、この頃の木米の耳はかなり不自由になったと言われています。
青木木米の耳が不自由になった理由!?
焼成(窯業で製品を窯に入れて、焼くこと)の際に、木米は耳を窯に近づけ炎の音の変化で温度を判断していました。そのため木米の耳は赤く腫れあがり、その積み重ねが結果として耳を不自由にしたと言われています。こういったエピソードから、木米の作品は命をすり減らして制作したと言っても過言ではない。木米の生い立ちを知れば知るほど、木米の作品に一層深みが増してくるわけです。ぜひ、作品を観る際は、このエピソードを思い返してほしいと思います。
天保4年(1833年)…
青木木米死去。(享年67歳)
現在木米の墓は京都市東山区の大谷本廟にあり、墓石には”識字陶工木米之墓”の文字が刻まれています。陶工としては遅い出発ながら、現在幕末の京を代表する陶工の一人に数えられ、九谷焼再興の立役者として知られています。
陶工としての木米は、主に茶器を制作していました。どれもデザインの素晴らしさはさることながら、何よりも使い手の事を考えた茶器になっているのが特徴と言われています。芸術さとその茶器本来の在り方を考慮して陶器を制作していたのは、木米の生家が茶屋だったというのが大きな理由だと思うのです。私が思うに、木米の作品は生い立ちが大きく影響している様に思います。それだけに、より作品の深みを感じるには、木米の生い立ちを知るのが一番だろうと思うわけです。
もしかしたら、涙を流すほどの名品に出会えるかもしれない「没後190年 木米」展。ぜひ機会があれば、行ってほしいと思います。
※ここで扱っているイラストや作品画像はpublic domainなど掲載可能な素材を使用しています。
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