ハンガリーの画家”ムンカーチ・ミハーイ”の魅力

ムンカーチ・ミハーイの絵画の魅力

 

ハンガリーを代表する画家ムンカーチ・ミハーイ

 

日本ではあまり馴染みがないと思いますが、
ハンガリーでは”が付くほど有名な画家の一人です。

 

実は私はこの画家についてよく知らなかったのですが、
一度彼の作品を観たら瞬間、即魅了!されてしまいました。

 

さてそんなムンカーチ・ミハーイの魅力とは??
代表作を見ながら、
ぜひその魅力を味わってみて下さい!

 

・・・

まず観て欲しい絵画がこちら!

「パリの寝室(本を読む女性)」(1877年)ムンカーチ・ミハーイ

「パリの寝室(本を読む女性)」(1877年)ムンカーチ・ミハーイ

ムンカーチ・ミハーイパリの寝室(本を読む女性)(1877年)

 

これは先日国立新美術館で開催した企画展
ブダペスト展ヨーロッパとハンガリーの美術400年 –」で観れた作品です。

 

考え…・思い…
実はまたムンカーチの絵画を観たくなって、
再度「ブダペスト展」行ってしまったのですが、
改めて見るとやっぱりいい!!
この独特な筆触と雰囲気がイイですね!!

 

 

して特におススメがこの作品です。

「ほこりっぽい道Ⅱ」(1874年)ムンカーチ・ミハーイ

「ほこりっぽい道Ⅱ」(1874年)ムンカーチ・ミハーイ

ムンカーチ・ミハーイほこりっぽい道Ⅱ(1874年)

 

絵を見て感動!
これは観た瞬間”まさに凄い!!”そう思ったのです。

見た感じはとても大胆なタッチに見えるのですが、
離れて見ると作品全体に調和があって実に繊細!です。

筆触”(筆の後を残す描き方)と言った方がいいでしょうか、
たった一筆で人物や馬車の動きを描いている
わけです。
※”筆触(ひっしょく)”…筆の跡を画面に残すこと。

これは物凄い事!!だと思います。
一筆で人物やその物の細部までを表現しているわけですから…

 

ムンカーチ・ミハーイ

1844年2月20日生~1900年5月1日没(享年56歳)

1870年にパリで行われたサロンで金賞を獲得。
これによってムンカーチ・ミハーイは
早くして名声を得ていく事になります。

その後ムンカーチの画家人生を変える出来事がありました。
後にパトロンとなるド・マルシェ男爵との出会いでした。

しかし程なくして
ド・マルシェ男爵が亡くなります。(1873年)
そして男爵が亡くなり未亡人となったセシル・パピエと結婚。
これが大きな転機となったといいます。

それまで主に田舎などの風俗画を描いていましたが、
妻セシルの要望もあり
徐々に大衆が好むような作品を描くようになっていくのです。

 

このムンカーチ・ミハーイは、
初期の頃は田舎の風景画を多く描いていたそうです。

「プスタの嵐」(1867年)ムンカーチ・ミハーイ

「プスタの嵐」(1867年)ムンカーチ・ミハーイ

・・・

「酒におぼれる亭主」(1872‐73年)ムンカーチ・ミハーイ

「酒におぼれる亭主」(1872‐73年)ムンカーチ・ミハーイ

ムンカーチ・ミハーイ酒におぼれる亭主(1872‐73年)

 

当時この様なハンガリーの農民や田舎の風俗画は、
パリの人たちには目新しさもあって
それなりに人気があったそうです。

 

しかし徐々に
ムンカーチの作風に変化が現れるのです。

実は1870年のサロンでムンカーチは
死刑囚の独房」という作品で金賞を受賞します。

これによって一躍名声を得ていったそうです。

しかしその後のムンカーチは
金賞を受賞した作品を超えるものが出来ずにいたのです。

そして自信を失い自殺を考えた事もあったと言います。
(俗にいうスランプってものでしょうか…)

しかもパトロンのド・マルシェ男爵の死もあり、
ムンカーチの画家人生は危機を迎えたわけです。

しかしその後
セシル・パピエとの結婚で一変していったのです。

絵画制作のために
巨大なアトリエが備わった贅沢な邸宅をパリに構えたのです。
そして優雅な生活を送る明るい雰囲気の作品を描くようになります。

 

・・・

「猟犬」(1882年)ムンカーチ・ミハーイ

「猟犬」(1882年)ムンカーチ・ミハーイ

色的には暗い感じもありますが、
豪華な部屋で優雅な生活といった”華々しい雰囲気”の作品を描くようになっていくのです。

属に”サロン絵画”と呼ばれるものです。

 

考え…・思い…
さてここでこんな興味深い話が!

実はムンカーチはサロン絵画を30点以上も描いていたそうですが、
不思議な事にそれらサロン絵画には
男性の姿が全く描かれていない”のだそうです。

解釈によればムンカーチは
家庭的な雰囲気を絵画に描きたくなかったという事だそうですが、
果たしてどうなんでしょうね!?

とにかくサロン絵画への転身が
ムンカーチを飛躍させた要因だったのかもしれません。
でもそれ以上に
元々彼にあった絵画の才能も大きかったのだろうと思います。

 

そして
宗教画も描いていきます。

「ピラトの前のキリスト」(1881年)ムンカーチ・ミハーイ

「ピラトの前のキリスト」(1881年)ムンカーチ・ミハーイ

これはピラトの前のキリスト(1881年)という作品です。

現在はデブレツェンにある”Déri Museum(デリ美術館)”に所蔵されています。

デブレツェン(Debrecen)
…ブダペストに続くハンガリーの第二の都市。

 

「エッケ・ホモ」(1896年)ムンカーチ・ミハーイ

「エッケ・ホモ」(1896年)ムンカーチ・ミハーイ

これはムンカーチエッケ・ホモという作品

エッケ・ホモ(Ecce homo)”
…ラテン語で「この人を見よ!」という意味になります。

つまり騒ぎ立てる群衆の前にイエスを立たせ、ピラトが発した言葉です。

 

ローマ帝国の総督ピラトはイエスを捕らえ鞭で打たせた。
兵士たちはいばらの冠をイエスの頭にかぶらせ、そして紫の上着を着せた。
それから「ユダヤ人の王バンザイ!」と言い、平手でイエスを打ち続けた。

すると総督ピラトは前に出てユダヤ人たちに言いました。「この人を見よ!
私はこの男を皆の前に引き出したが、この男には何の罪も見いだせない。

集まったユダヤ人の役人たちはイエスを見て叫んで言いました。「十字架に付けよ!十字架に付けよ!!」

そしてピラトは群衆に言いました。「私の取り調べではこの男は無罪だ。だがそこまで言うならあなたたちが十字架に付けるがよい!」

ユダヤ人たちがピラトに言いました。「この男は自分を神の子とぬかしました。私たちの法律では、彼は死罪に値します。」
この言葉を聞き、ピラトはますます怖くなったのです。…
(ヨハネの福音書19章1節~8節より)

※このシーンが意味しているのは、
最初はピラトはイエスを無罪だと知り、処刑する事に対して消極的だったそうです。

そしてピラトが群衆の前にイエスを立たせ、
この男を見よ!(エッケ・ホモ)」と発したのです。

しかし集まった群衆達はイエスを処刑するよう訴えてきた。

仕方なくピラトは群衆の要求に応えるため、
そして自身の政治的立場をためイエスの処刑判決を認めたと言います。

このエッケ・ホモは絵画でもよく描かれるテーマです。
予備知識として参考にしてみて下さい。

 

・・・

「ゴルゴタの丘」(1884年)ムンカーチ・ミハーイ

「ゴルゴタの丘」(1884年)ムンカーチ・ミハーイ

そしてこれはGolgota(ゴルゴタ)

これもデブレツェンにある”Déri Museum”に所蔵されている作品です。

”ゴルゴタ”はエルサレムにある丘の事で、
イエス・キリストが十字架に磔(はりつけ)にされた場面を描いています。

 

ここまで簡単ですが、
ムンカーチの作品と魅力について触れてきましたが、
如何せんムンカーチはハンガリーの画家だけに、
作品の多くはハンガリーの美術館に所蔵されている様です。

それだけになかなか日本で見る事は難しい!

 

考え…・思い…
ぜひ観る機会があったら、
お見逃しなく!!と思いますね。

ムンカーチの絵画を見る際は
近くで筆触を味わいながら、
それから数歩離れて
作品全体の調和を愉しんで欲しいと思います。

間違いなくムンカーチの絵画は
LIVE(生)で観るのが最高の楽しみ方だと思いますよ!

 

※ここで扱っているイラストや作品画像はpublic domainなど掲載可能な素材を使用しています。

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