- 2024-2-3
- Enjoy This (観てほしい絵画展)
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学校の授業で習ったはずなので、”本阿弥光悦”という名は知っていると思います。
でも、どんな人物なのか!?
作品や芸術性まで分かる人は、そうはいないと思います。
ましてや”光悦の凄さ!”について語れる人は、おそらくほとんどいないでしょうね。
光悦の作品は文化財指定されているものも多いため、美術館等で見る機会もあると思います。でもほとんどの人は、”何が凄いんだろう!?”で終わっているかと。実のところ、私も最初はそんな感じでしたからね。
でもある作品をきっかけに、私は”光悦の凄さ!”を実感できたのです。
それは俵屋宗達との合作『鶴下絵和歌巻』でした。
今回は「天才」や「マルチアーティスト」と呼ばれてる”本阿弥光悦”の凄さについて、ちょっとお話ししようと思います。
【 目次 】 |
まずは、本阿弥光悦について簡単解説!
本阿弥光悦は、俗に「天才」や「マルチアーティスト」と言った呼ばれ方をします。
東京国立博物館で開催した「本阿弥光悦の大宇宙」に行った人は分かるだろうけど、光悦は書や陶芸、漆芸、出版、能楽など様々な分野で活躍した芸術家です。特に”書”の分野では、名人と称されるほど!後世に与えた文化的な影響も考えると、天才といっても過言ではないでしょうね。
でも実際に光悦の書や陶芸を観ても、その凄さはちょっと理解できなかったりします。
おそらくその分野の専門家でない限り、本当の意味で理解するって無理だろうと思います。
本阿弥光悦 ※public domain画像
本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ) 永禄元年(1558年)ー寛永14年2月3日(1637年) 桃山~江戸初期の芸術家。号は徳友斎、大虚庵など。 京都で本阿弥家の分家に生れる。家業は刀剣の鑑定や研磨などをしていたが、光悦は書や陶芸、漆芸、能楽などで名を残します。 元和元年(1615年)徳川家康から洛北の鷹峯(たかがみね)を賜わり、尾形道柏や紙師宗二ら、そして職人などの法華宗徒を引き連れ、後に芸術家村”光悦村”を築く。 (代表作) ・書: 『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』※光悦書・宗達下絵、京都国立博物館所蔵 |
こうやって見ると、実に様々なジャンルで活躍した芸術家なのが分かります。
特に光悦を語る上で、「舟橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)」と、白楽の茶碗『不二山』は外せない逸品。どちらも国宝に指定されている作品ですから。
でも漆器や陶芸といった類は、素人が見てもよく分からないと思います。せいぜい”美しい!”や”何だか味がある!”くらいしか感じないでしょうか。
そして一つは、光悦の”書”です。
「寛永の三筆」に数えられる程の名人で、「光悦流」の祖と仰がれていたから。実際に東京国立博物館で開催した「本阿弥光悦の大宇宙」で、”書”の占める割合は結構多かったですしね。
でも”書の名人”と言われても…
私の様な素人でも、多少の字の上手いや下手は分かります。それでも光悦の字は、ちょっと理解に苦しむ時があります。ハッキリ言って、上手いとかのレベルじゃ説明が付かないわけです。
極端に言えば”まるで一本線だけ?”とか、”これは何て書いてあるの?”と読めないものまで。それで「光悦流」の祖と仰がれているわけですから、素人の私には到底理解できないわけです。
それが、ある一つの作品をきっかけに、光悦の凄さ!が何となく分かった気がしたのです。
俵屋宗達と共同で制作した合作『鶴下絵和歌巻』です。
ちなみに『新潮 世界美術辞典』では、光悦の書について気になる記載がありました。
・・・桃山時代の闊達な時代感覚で独自の書境を拓いた。とくに俵屋宗達とその一派が金銀泥下絵を描いた華麗な料紙を用いとき、その本領が最もよく発揮されたといえよう。
・出典元:『新潮 世界美術辞典』より一部抜粋
・「闊達」…小さいことにこだわらない、伸び伸びとした様子。
字が上手い下手じゃない!
”細部にこだわらない伸び伸びとした書体”
これこそ、光悦の書の神髄なのでは?と思ったのです。
きっかけは、宗達との合作『鶴下絵和歌巻』でした。
・34.0×1356.0cm、江戸時代(17世紀)、1巻 紙本著色、京都国立博物館所蔵
金と銀の泥で、鶴だけが描かれている非常にシンプルな下絵、その上に本阿弥光悦が墨で三十六歌仙の歌を書き加えた共同作品です。
そして圧巻は、10メートルを超す長さ!東京国立博物館で開催した「本阿弥光悦の大宇宙」では、一巻を広げた状態での展示されていたのは、実に嬉しかったですね。
・江戸時代(17世紀)、1巻 紙本著色、京都国立博物館所蔵
今さら説明は要らないかもしれませんが、俵屋宗達は江戸時代初期に活躍した画家です。”琳派の祖”と言われていて、装飾的でデザイン性に富んだ作風が特徴。
この『鶴下絵和歌巻』も、まさにそんな感じですね。
金と銀で描かれた鶴は、色的にも装飾性に富んでいますし、連続性を持った鶴をいくつも描く事で、”琳派にも通じるデザイン性”も兼ねているから。私が思うに、”琳派”を語る上で、貴重な作品だと思っています。
・江戸時代(17世紀)、1巻 紙本著色、京都国立博物館所蔵
そんな装飾的な下絵の上に、本阿弥光悦が墨だけで”三十六の和歌”を記した作品。
一見すると、なんてことはないかもしれない。
でも観方を変えると、コレって凄くない!?と。
黒だけの文字が、装飾的な下絵に負けない存在感があるからです。
だってそうでしょ!?
装飾的な絵と、黒だけの文字で比べたら、断然絵の方が映えると思うから。それにも関わらず、文字が絵に負けないくらいの存在感があるからです。
普通に考えたら、不思議で仕方がない。
つまり…
文字映えする!?
これが光悦の書の凄さ!なのだろうと。私は『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』を観ていて、ふと気付いてしまったのです。
結論から言ってしまうと、光悦の文字が装飾的!というわけです。
なるほどね~
装飾的な絵に負けていない理由は、文字も装飾的だからなんですね。
ちなみに”光悦流”という用語を、辞書で調べてみると…
光悦流
和様書道の流派の一つ。江戸時代初期、寛永の三筆の一人といわれた本阿彌光悦が創始。肥痩(ひそう)の差が大きく、豊満華麗で装飾性に富む。
・出典元:コトバンク・『日本国語大辞典』より
肥痩(ひそう)は字でも分かる通り、「肥えている、痩せている」を意味する言葉。
つまり光悦の文字は太かったり、細かったり、そして華麗で装飾的というわけです。
・江戸時代(17世紀)、1巻 紙本著色、京都国立博物館所蔵
私が最初に、光悦の”書”は上手いとかでは説明のしようがないと言った理由がこれです。
光悦は”書”を文字としてではなく、装飾的なアートとして考えていた!?
僕らが持っている”書は上手くて当然”という認識のままでは、光悦の凄さは到底理解できないでしょうね。
”書”の在り方を根底から塗り替えた点で、思うに光悦の考えは斬新だった。当時は異色な人物として、見られていたかもしれませんね。
でもそれを評価出来た人がいたって事は、当時の文化レベルの高さも感じてしまいますね。
おそらく”書”だけだったら、光悦の凄さは到底理解できなかったと思います。
俵屋宗達との下絵がベースに、その上に光悦の書があって、私は本阿弥光悦という人物の凄さを実感できた気がします。
どうでしたか?
少しは光悦という芸術家について分かってきたかと思います。少なくとも『鶴下絵和歌巻』を観る機会があったら、今回の話を参考にしてもらえたら嬉しいですね。
※ここで扱っているイラストや作品画像はpublic domainなど掲載可能な素材を使用しています。
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