正月の風物詩”凧揚げ”を、浮世絵で観てみました。

凧揚げ

 

最近ではほとんど見かけなくなったけれど、僕らの年代からすると凧揚げは正月の風物詩というイメージがあります。

 

私が小学生だった時は、凧揚げをして遊んだ記憶がありますし。学校の行事?でも凧揚げをした記憶があるくらいですから。

こんな話をすると、私の年齢もある程度バレてしまうかもしれませんが。^^

 

そんなわけで今回は、浮世絵から当時(江戸時代)の凧揚げ風景をちょっと探ってみようと思います。

 

目次

浮世絵から見る、江戸時代の凧揚げ風景
凧揚げについて、私なりに簡単に解説!

 

 

 

 

浮世絵から見る、江戸時代の凧揚げ風景

『冨嶽三十六景:江都駿河町三井見世略図』(天保2年頃)葛飾北斎

『冨嶽三十六景:江都駿河町三井見世略図』(天保2年頃)葛飾北斎 / 大判錦絵

凧揚げが描かれている浮世絵と言ったら、葛飾北斎の代表作冨嶽三十六景は忘れてはいけないですね。

上の絵は「江都駿河町三井見世略図(えどするがちょうみついみせりゃくず)」で、三十六景(正確には四十六景)の中の一枚です。

これは結構有名な絵なので、観た事のある人も多いでしょう。

ちなみに手前に見える建物は呉服店”三井越後屋”で、駿河町(現在の東京都中央区日本橋)に建っていました。

当時は富士山がよく見える事で有名だったそうです。

 

『冨嶽三十六景:東都浅草本願寺』(天保2年頃)葛飾北斎

『冨嶽三十六景:東都浅草本願寺』(天保2年頃)葛飾北斎 / 大判錦絵

これは「東都浅草本願寺」で、同じく『冨嶽三十六景』の中の一枚です。

浅草本願寺は現在東京都台東区の西浅草にあるお寺。

そこから見える富士山を描いた作品です。さりげなく凧が描かれているのもポイントですね。

さて、ここまで葛飾北斎の代表作を観てみましたが、探していくと他にも描かれているのが分かります。

 

『東海道五拾三次之内 (保永堂版)掛川』(天保4-5年、1833-1834年頃)歌川広重

『東海道五拾三次之内 (保永堂版)掛川』(天保4-5年、1833-1834年頃)歌川広重

これは浮世絵師”歌川広重”の代表作東海道五拾三次です。

当時『東海道五拾三次』は非常に人気があり、広重は20種類を超える『東海道』シリーズを手掛けたと言われてます。

中でも『保永堂版』と『行書版』、『隷書版』は特に有名です。

 

『東海道五十三次之内(行書版)袋井』(天保13年、1842年頃)歌川広重

『東海道五十三次之内(行書版)袋井』(天保13年、1842年頃)歌川広重

『行書版』は名前の通り、表題が行書体で書かれているのが特徴。

天保13年頃に創刊されたシリーズで、全体的に色彩も淡い感じに仕上がっているのも特徴でしょうか。

 

『東海道(隷書版) 廿八 五十三次 袋井』(江戸時代、1848-1854年)歌川広重

『東海道(隷書版) 廿八 五十三次 袋井』(江戸時代、1848-1854年)歌川広重

対して表題が隷書で書かれているのが、俗に『隷書版東海道』と呼ばれるシリーズ作。

行書版よりも色彩的にメリハリがあるのも一つの特徴の様です。

ひとえに『東海道五十三次』とはいえ、シリーズによって構図や色彩などの違いがあるのもオモシロい。

 

『諸国名所百景:遠州 秋葉遠景 袋井凧』(1859年)歌川広重(2代目)

『諸国名所百景:遠州 秋葉遠景 袋井凧』(1859年)歌川広重(2代目)

そして2代目歌川広重の代表作『諸国名所百景』も忘れてはいけないでしょうね。

デカデカと描かれた大きな凧に目が向いてしまいますね。

浮世絵は庶民の生活を描いた”風俗画”で、描かれている場面は実際の光景を元に描かれていると思います。

ただそれにしては凧が大きすぎる。

ある程度”美化”して描かれているだろうけど、少なくとも江戸時代の生活や娯楽ぶりを垣間見れると思っています。

 

私の考え
正月休みでダラダラしていた時の事、ふと”凧揚げが描かれている浮世絵があったよな~”って。

そんなちょっとしたきっかけから始まったわけですが、調べていくと意外と多い事に驚き!

時には”テーマ”をきっかけに、調べてみるのもオモシロイですね。

 

 

 

凧揚げの歴史について、私なりに簡単に解説!

解説

簡単にはなりますが”凧揚げ”の歴史ついて解説したいと思います。

調べてみたところ、凧揚げの起源は中国大陸から始まったものだとされています。

そしてどのタイミングで日本に伝わったかは分かりませんが、平安時代には”凧揚げ”の様なものがあったそうです。そう考えると、結構歴史の深い”遊び”だったのが分かります。

でも当時はまだ庶民の遊びではなく、貴族や武士など身分の高い人たちの娯楽だったようです。

そして江戸時代になり、徐々に庶民の間に広まっていったという流れです。

 

『風俗東之錦:凧糸の縺れ』(天明3-4、1783-1784年頃)鳥居清長

『風俗東之錦:凧糸の縺れ』(天明3-4、1783-1784年頃)鳥居清長 / 大判錦絵

上の浮世絵を観ても分かる様に、”凧揚げ”が流行っていたのが伺えますね。

ここで一つ重要なエピソードとして、当時凧揚げによる事故が頻繁に起こっていたという話があります。そういった理由で「町中でのイカノボリを禁ずる」という禁止令も出てしまったとか。それだけ江戸時代は凧揚げが流行ったというわけでしょうね。

余談にはなりますが、江戸時代は凧揚げ(タコアゲ)ではなく、”イカノボリ?”と言われていたそうです。

 

そして明治時代になると、都市化に伴い凧揚げは減っていったと言われています。

でも全く無くなったというわけではなかったようで、正月などの祭りやイベント時の子供たちの娯楽という形で残っていった。

それが今に続いているわけですね。

 

凧揚げ
僕らの子供の頃は”凧揚げ=正月の遊び”だったけれど、最近は正月に凧揚げの光景を見る機会がなくなった感じがします。
(最近の子供たちはゲームなどの娯楽が沢山あるから、凧揚げをしなくなるのも分からなくはないですが…。)

でも地域によってはしっかりと残っていて、お祭り事や地域のイベントとして行わたりしています。

娯楽というより、”風物詩的なイベント!”といった感じでしょうか。

とにかく、どんな形であれ”凧揚げ”が今後も残っていくとイイですね。

 

 

※ここで扱っているイラストや作品画像はpublic domainなど掲載可能な素材を使用しています。

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