スコットランドの画家”デイヴィッド・ウィルキー”ってどんな画家?

画家”デイヴィッド・ウィルキー”

 

イギリスの風俗画家で歴史画家の”デイヴィッド・ウィルキー(David Wilkie)

 

画家としての活躍は申し分ないのに、なぜか日本での知名度はいま一つ低い。早くしてロイヤル・アカデミーの正会員に、終いには主席宮廷画家の地位に就くほどの功績を残したのに。個人的にイギリスを代表するターナーと対等では?と思うほど。

 

とはいえ、私自身ウィルキーという画家については正直言ってあまり知りません。以前一度か二度作品を見た記憶があるくらいです。今回「スコットランド美術館展」で気になったので、調べてみたのですが、私的にぜひチェックして欲しい!そう思う画家だったのです。

 

 

デイヴィッド・ウィルキーってどんな画家?

ZOOM

早速ですが、手持ちの「新潮世界美術辞典」で画家”デイヴィッド・ウィルキー”について調べてみました。

 

ウィルキー・デイヴィット(Sir David Wilkie)

1785.11.18ー1841.6.1

イギリス、スコットランド系の歴史画家、風俗画家、肖像画家。カルツに生れ、マルタ島近くの海上で没。牧師の子で、1805年ロイヤル・アカデミーの美術学校入学。1809年ロイヤル・アカデミー準会員。1830年ローレンスの後継者として国王ジョージ四世(George Ⅳ、在位1820‐30)付の画家となる。1825‐28年、イタリア、オーストリア、ドイツ、スペインを転々とし、その間にとくにイタリア、スペイン芸術の影響を強く受けた。1840年近東へ旅行し、翌年その帰途中に没した。代表作「盲目のヴァイオリン弾き」(1806年、ロンドン、テート・ギャラリー)

※「新潮世界美術辞典」より

 

調べてみると、イギリスではかなり成功した部類の画家だったのには驚き!あまり知名度が高くないだけに、油断していたけれど、実は画家としての功績はかなりだったのです。

「自画像」(1804‐05年)デイヴィッド・ウィルキー

「自画像」(1804‐05年)デイヴィッド・ウィルキー

 

デイヴィッド・ウィルキーはカルツにある小さな村”ピトレシー(Pitlessie)”で生まれます。現在この村には「デイヴィッド・ウィルキー記念館」があるそうです。ちなみに村の市の様子を描いた風俗画も描いています。

 

「ピトレシーの市」(1804年)デイヴィッド・ウィルキー

「ピトレシーの市」(1804年)デイヴィッド・ウィルキー

・58.5×106.7cm、カンヴァスに油彩、スコットランド国立美術館所蔵

この「ピトレシーの市(Pitlessie Fair)」はウィルキーが19歳の頃に描いた作品。見ての通り繊細で写実的で、17世紀のオランダ絵画の影響が伺える作品と言われています。ちなみにこの作品によってデイヴィッド・ウィルキーは一躍有名になったそうで、”出世作”と言われています。

私的に群衆画は難しいジャンルの絵画だと思っていて、それを10代でここまで描いているのです。評価されるのも当然だろうな~と思いますね。

 

「盲目のヴァイオリン弾き」(1806年)デイヴィッド・ウィルキー

「盲目のヴァイオリン弾き」(1806年)デイヴィッド・ウィルキー

・57.8×79.4cm、カンヴァスに油彩、テート・ギャラリー所蔵

これはウィルキーの代表作の一つ「盲目のヴァイオリン弾き(The Blind Fiddler)」。21歳頃に制作した作品です。

素人の私が見ても、一目瞭然で上手い!と思う作品です。この数年後にロイヤル・アカデミーの会員へと選ばれていくのですが、この生い立ちを見ていると、”ロマン主義を代表するターナー”との共通点も見えてくるのです。

 

実はウィルキーの画家としての活躍を説明するには、ロマン主義のウィリアム・ターナーと比べてみるのが一番分かりやすいと思っています。

 

 

デイヴィッド・ウィルキーの功績が凄かった!!

Painting Art

デイヴィッド・ウィルキーの画家としての功績を説明するには、”イギリスの風景画家ターナー”と比較してみるのが一番!だと思っています。

実は調べていくと共通点が結構あるからです。

 

ターナーと言えば風景画家として有名な画家ですが、実は生きていた時代がほぼ同時期だった点は、まず注目したいポイントだと思います。

・デイヴィッド・ウィルキー(1785年~1841年)
・ウィリアム・ターナー(1775年~1851年)

 

ターナーは若くして才能を評価され、画家として比較的順風な人生を送っていました。26歳という若さで、ロイヤル・アカデミーの正会員になっているほど。実はこのデイヴィッド・ウィルキーも早くして才能を開花!!1811年にロイヤル・アカデミーの正会員になっているのです。年齢的には26歳で、ターナーとほぼ同年齢で正会員になっています。

 

「紹介状」(1813年)デイヴィッド・ウィルキー

「紹介状」(1813年)デイヴィッド・ウィルキー

・61×50.2cm、カンヴァスに油彩、スコットランド国立美術館所蔵

これはウィルキーが正会員になって数年後に描いた作品「紹介状(The Letter of Introduction)」。ちなみに紹介状を携えた青年は、ウィルキー自身とも言われています。

 

そして名声を不動のものとしたのは、ウェリントン公の注文で制作された「ワーテルローの戦いの戦報を読むチェルシーの年金受給退役軍人たち」(1817‐21)

「ワーテルローの戦いの戦報を読むチェルシーの年金受給退役軍人たち」(1822年)デイヴィッド・ウィルキー

「ワーテルローの戦いの戦報を読むチェルシーの年金受給退役軍人たち」(1822年)デイヴィッド・ウィルキー

・97×158cm、カンヴァスに油彩、ウェリントン美術館所蔵

実はこの作品は1822年のロイヤル・アカデミー展で出品されたもの。当時かなりの人気のため鉄柵が設けられたそうです。ウィルキーの30代後半期には、それなりの人気と知名度があったのが伺えると思います。

 

そして1830年にはトーマス・ローレンスの後任として国王ジョージ4世の宮廷画家になっています。

「皇妃ジョゼフィーヌと占い師」(1837年)デイヴィッド・ウィルキー

「皇妃ジョゼフィーヌと占い師」(1837年)デイヴィッド・ウィルキー

・211×158cm、カンヴァスに油彩、スコットランド国立美術館所蔵

 

ほぼ同時期に生きたデイヴィッド・ウィルキーとターナー。もちろん接点もあったようです。

ウィルキーが亡くなった時のこんなエピソード…

「平和-海葬」(1842年)J・M・ウィリアム・ターナー

「平和-海葬」(1842年)J・M・ウィリアム・ターナー

・87×86.5cm、カンヴァスに油彩、テート・ギャラリー所蔵

ターナーの友人デイヴィッド・ウィルキーは1841年、イギリスに向かう途中にジブラルタル沖で、病気のために亡くなります。そして1842年、ターナーはウィルキーの死を悼み「平和ー海葬」を仕上げます。

宮廷画家まで昇りつめた画家”デイヴィッド・ウィルキー”。もちろん評価も相当高かったそうです。ターナーはそんなウィルキーを画家としても認めていたんだろうと思います。この作品からはそんなターナーの思いが伝わってくる様ですね。

 

「結婚式の日に身支度をする花嫁」(1838年)デイヴィッド・ウィルキー

「結婚式の日に身支度をする花嫁」(1838年)デイヴィッド・ウィルキー

・100×125cm、カンヴァスに油彩、スコットランド国立美術館所蔵

生い立ちを見ると、ターナーとの共通点も意外と多い画家”デイヴィッド・ウィルキー”。ぜひチェックして欲しい画家だと思います。

 

※ここで扱っているイラストや作品画像はpublic domainなど掲載可能な素材を使用しています。

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