- 2016-10-7
- Artist (画家について), Artwork (芸術作品)
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江戸時代に京で活躍した奇想の画家”伊藤若冲”。
卓越した描写技術とユーモア溢れる独特な画風は、一度見たら目に焼き付くくらい衝撃的だったりします。比較的最近になって再評価されるようになった画家で、なぜこれほどの画家が今まで注目を浴びなかったのかが不思議なほど。
2016年で生誕300年を迎えたという節目もあるだろうけど、一番は若冲の奇想的な画風が注目を浴びるようになった理由でしょうね。
ぜひ”伊藤若冲”の作品や生い立ちは知っておいてほしいと思うのです。
奇想の画家”伊藤若冲”の代表作
奇想の画家…
奇想とは、普通では考えつかない、もしくは奇抜な意味を表わす言葉です。元々は美術史博士”辻 惟雄(つじのぶお)”先生がきっかけの様ですが、とにかく伊藤若冲を表わすには最適な一言だと思います。
もちろん、奇想的なのは若冲の作風から来ていると思いますが、それは代表作を見ても分かる事!普通では考えつかない感じが特徴的だったりします。
さて、若冲の代表作を挙げるとすると、真っ先に挙がるのが『動植綵絵(どうしょくさいえ)』になると思います。
・142.3×79.5、絹本着色 一幅、宮内庁三の丸尚蔵館蔵
『動植綵絵』は、30幅から成る動植物を描いた彩色画。
約10年の歳月をかけて制作した作品で、1枚1枚細部まで注ぎ込まれたこだわりは、何といっても見所でもあり魅力!1枚の作品を完成させるのに、一体どれだけの時間と手間をかけたのか?想像するだけで、ちょっと怖くもなる作品です。徹底的に細部まで描き込まれた細密さと、絵具や染料の特徴を活かした塗り分け。伝統的な技法があちこちに使用された『動植綵絵』は、やっぱり若冲の一番の代表作と言っても過言ではないと思います。
・襖絵6面、大阪府西福寺所蔵
さて、若冲は動物の絵を多数描いていますが、特に必見は”鶏”だと思っています。庭に鶏を飼って、日々観察していたというエピソードは結構有名で、思うに作品から”ある種の研究者的視点”も読み取れると思っています。この時代でここまで細部までこだわる必要はあったのか?それは分かりませんが、とにかくここまで細密かつ繊細に作品を仕上げた画家は、他にはいなかっただろうと思います。
美術史博士”辻 惟雄”先生の言葉を借りるならば、”若冲は私たちとはまったく違う世界が見えていたのだろう”そう思わざるを得ないのです。
・137.5×355.6、紙本着色 六曲一双、静岡県立美術館所蔵
これは若冲70代の頃の作品「樹花鳥獣図屏風」。中央に位置しているまん丸とした白象と周りに描かれた様々なデフォルメされた動物たち。小さな四角形をつくって色を塗り、その四角の中にさらに小さな四角を描くという技法で、かなりの手間をかけたこだわりのモザイク風の屏風。しかも描かれている動物には、当時日本には存在しなかった動物もいるそうです。若冲の研究熱心さとユーモア、それにヴァイタリティ―が存分に表れている作品だと思います。
奇想の画家”伊藤若冲”の生い立ち
奇想の画家と言われる所以は、画風だけでなく生い立ちにもあると思っています。
伊藤若冲(1716年~1800年)は、享保1年から寛政12年に生きた画家です。
1716年と言えば、時代でいうと江戸時代中期。当時8代将軍徳川吉宗が世を治めていました。
伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)
享保1ー寛政12.9.10(1716ー1800)
江戸中期の画家。名は汝鈞(じょきん)、字は景和、若冲のほかに斗米庵、米斗翁の号がある。京都錦小路の青物問屋に生れ、京都深草で没。初め狩野派を学んだが、さらに宋元明の中国画を研究し、また直接自然を学ぶことによって独自の作風を開いた。装飾的な花鳥画には尾形光琳の影響も認められるが、他方では鋭く飄逸な水墨画を描き、またとくに鶏を描くことを得意とした。生涯独身で、晩年は深草の石峯寺(せきほうじ)の傍らに隠棲した。代表作は『動植綵絵』30幅(1770、御物)、京都鹿苑(ろくおん)寺大書院水墨障壁画(1759)、大阪府西福寺の金地濃彩襖絵『群鶏図』(1790)など。
出典元:新潮世界美術辞典
さて、簡単ですが若冲の生い立ちについて話していこうと思います。
1716年(享保元年)…
京都の錦小路にある”青物問屋”の長男として生まれます。
若冲は生まれながらにして、家業”青物問屋”を継ぐ宿命にあったのです。事実、若冲が23歳の頃に、父宗清が42歳の若さで亡くなり、その後家業を継ぐ事になります。しかし、若冲は商売に全くと言ってもいいくらい興味がなかったと言われています。
「藤景和画記」には、若冲のこんな人物像が書かれています。若冲は勉強嫌いで字も下手、娯楽にも関心を示すことがなかったと言われています。もちろん、商売にはまったく興味がなかったのです。でも、唯一興味があったのが”絵を描く事だった”と。
若冲40歳の頃、家督を弟の”白歳”に譲ります。
ここから若冲の画家人生が始まったと言われています。でも実際に本格的に絵を描き始めたのは、30歳辺りだと言われています。
さて、伊藤若冲の流派は何派?
この質問に戸惑う人も多いと思います。実は伊藤若冲は、独自の画風を確立した画家と言われているからです。
当初、若冲は狩野派や土佐派に学んだり、その後は中国画にも影響を受けたと言われています。でも、高みを目指す若冲にとって狩野派も中国画も一つの糧としか見ていなかったのかもしれない。40歳からの本格的な画家人生とは言われているけれど、もうこの頃には、若冲独自の画風が確立してきたと言われています。
当時(江戸時代)の平均寿命で考えると、長生きして50歳くらいと言われていたので、そう考えると40歳という年齢は画家としては遅い出発です。
・140.0×85.0センチ、絹本着色 一幅、プライス・コレクション
”やっと好きなだけ絵を描く事に専念できる!”
それを証明するかの様に、画家人生が始まってからの若冲の制作意欲は凄いものがあります。
若冲42歳頃…
代表作『動植綵絵』の制作が始まります。先ほどちょっと触れましたが、『動植綵絵』は全30幅から成る動植物を描いた彩色画。これまで学んだ狩野派や中国画の技法がふんだんに表現されています。
さて、ここでポイントですが、『動植綵絵』は若冲にとって大仕事だった作品です。10年という年月がそれを物語っていますが、決してこの作品は人から頼まれて描いたものではなかった。”世に遺すため”、つまり若冲が自発的に制作し始めた作品だったのです。
人生50歳といわれていた当時、若冲も限られた人生を考えていたのでしょう。世に遺す遺作として、若冲は『動植綵絵』を制作したのだと思うのです。
画家としては遅い出発でしたが、でも後世に残る様な功績は残しています。
『平安人物志』の”明和5年版”や”安永4年版”、そして”天明2年版”の「画家」の欄に”若冲”の名が載っています。
天明8年(1788年)…
京都の火事では最大規模となる”天明の大火”が発生します。この大火で若冲の家やアトリエが焼かれてしまいます。若冲は生活のために、絵を描く様になったと言われています。またこの頃から、若冲は工房を持ち制作していったそうです。弟子も数人抱えていたと言われ、若演や意冲、莱洲、玉冲、曇冲、環冲、独冲、米中、若啓と若冲の字が少なからず付けられているのが興味深いですね。
若冲の画家としての活動に勢いが増していくわけです。
寛政12年(1800年)…
9月10日、若冲は85歳という年齢で亡くなります。
江戸では”北斎”、京においては”若冲”と言われる伊藤若冲。亡くなるまで絵を描き続けたという意味では、葛飾北斎と同じく画家としてあり続けた人生だったわけです。
※ここで扱っているイラストや作品画像はpublic domainなど掲載可能な素材を使用しています。
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