印象派の”アルマン・ギヨマン”ってどんな画家?

印象派画家”アルマン・ギヨマン”について

 

一度目にしたらず~と記憶に留まる様な…
そんな心に残る存在感がギヨマンの絵にあります。

これが私が思う印象派画家”アルマン・ギヨマン”の魅力!

 

モネやルノワールなどの印象派画家に比べると、知名度で言えば一歩下がる感じだけれど、絵の存在感が強いだけに印象派にはなくてはならない存在だと思っています。

おそらくギヨマン独特な鮮明な色遣いが絵に強い存在感を与えているのかもしれませんね。

 

 

印象派の”アルマン・ギヨマン”ってどんな画家!?

Painting Art

では印象派画家”ギヨマン”の生い立ちと作品の魅力について迫っていこうと思います。

 

「自画像」(1878年)アルマン・ギヨマン

「自画像」(1878年)アルマン・ギヨマン

本名は…ジャン=バティスト・アルマン・ギヨマン
(Jean Baptiste Armand Guillaumin)

1841年2月16日~1927年6月26日没
(実はクロード・モネと同じく86歳まで生きたのです。)

パリ生まれのフランスの印象派画家で、主にパリの都市部や郊外の田舎町や風景画が特に知られています。また鮮明な色遣いから後にマティスやデュフィに大きな影響を与え、”フォーヴィスム”の先駆けとも言われています。
フォーヴィスム(Fauvisme)…激しい色彩表現から”野獣の檻の中にいるようだ!!”と称された事からフォーヴィスム(野獣派)と呼ばれる様になったと言われています。

 

(ギヨマンの生い立ち)  

1841年2月16日…
アルマン・ギヨマンはフランスのパリで生まれます。

このギヨマンを語る上でポイントは”生き方”にあると思います。

昼間は叔父のランジェリー店で働き、夜は学校でスケッチの勉強をしたりと、青年期は恵まれた生活環境にいなかったのです。もちろんその後も仕事をしながら絵を描くという生活が長く続きます。

 

1861年に”アカデミー・シュイス”で勉強を始める。
ここでセザンヌやカミーユ・ピサロといった後に印象派の画家たちと出会います。

このアカデミー・シュイスは少額で通える絵の学校。もちろんこの頃も仕事をしながら絵の勉強をしていたと言われています。

 

1863年…落選者展に出品

この年に”カフェ・ゲルボワ”に頻繁に通う様になります。このカフェはマネなど印象派の画家たちが集まった場所でよく議論を交わしていたそうです。

 

「カミーユ・ピサロの肖像画」(1868年)アルマン・ギヨマン

「カミーユ・ピサロの肖像画」(1868年)アルマン・ギヨマン

・カンヴァスに油彩、45.5×37.8cm、オルセー美術館所蔵

 

1874年に「第1回印象派展」に参加。
印象派展は1886年まで計8回開催し、そのうちギヨマンは6回参加しました。

 

「イヴリーの夕焼け」(1869年)アルマン・ギヨマン

「イヴリーの夕焼け」(1869年)アルマン・ギヨマン

・カンヴァスに油彩、65×81cm、オルセー美術館所蔵

この「イヴリーの夕焼け」は第1回印象派展に出品された作品。

工場の煙突から出ている黒々とした煙とそれと対照的に輝くように美しい夕焼けの様子を描いた風景画。現在はオルセー美術館に所蔵さていて、ギヨマンを代表する作品として有名です。

 

「パリのセーヌ川」(1874年頃)アルマン・ギヨマン

「パリのセーヌ川」(1874年頃)アルマン・ギヨマン

・カンヴァスに油彩、45.3×61cm、プライベートコレクション

 

「ヴァリュベール広場」(1875年)アルマン・ギヨマン

「ヴァリュベール広場」(1875年)アルマン・ギヨマン

 

個人的に思う事ですがこの頃のギヨマンの絵はシスレーとピサロを足して2で割った感じに見えます。こう思うのは私だけだろうか!?

 

「川の景色」(1890年)アルマン・ギヨマン

「川の景色」(1890年)アルマン・ギヨマン

 

ギヨマンはパリなど都市の風景画が多く描いていますが、これは夜は仕事昼に絵画制作という生活スタイルのためだったから。

でも思うに風景画家である以上、ギヨマンはいろんな場所の風景を描きたかったのでは?と思うのです。

 

1891年…
そしてギヨマンにとっての幸運な出来事が起こります。
宝くじが当たったのです。これによってようやく画業に専念できるようになったと言います。

「廃墟のある風景」(1897年)アルマン・ギヨマン

「廃墟のある風景」(1897年)アルマン・ギヨマン

・カンヴァスに油彩、79×93cm、プーシキン美術館所蔵

これは以前「プーシキン美術館展」で展示された作品。
この「廃墟のある風景」はフランスの中部クルーズ川流域の村クロザンの景色を描いたもの。

ギヨマンは画家だけでは生計を立てられなく、50才になるまで仕事をしながら絵を描き続けていました。

 

そういった努力と苦労が報われたからなのか?

宝くじでそれなりのお金を得られた事でギヨマンはパリを離れて絵を描く事も可能になったのです。

 

「La Roche de l’Echo, Crozant」(1907年)アルマン・ギヨマン

「La Roche de l’Echo, Crozant」(1907年)アルマン・ギヨマン

・カンヴァスに油彩、65×81cm

 

「La Scierie de Poitiers」(1910年)アルマン・ギヨマン

「La Scierie de Poitiers」(1910年)アルマン・ギヨマン

・カンヴァスに油彩、54.1×72.8cm、プライベートコレクション

実はアルマン・ギヨマンの作風は後半から色彩がより鮮明になってきたと言われています。

確かに大金を得たとは言っても、それは画業による収入ではなかったわけです。

これは私的な解釈ですが”画家として大成したい!!
そういった想いが色遣いにも表れていたのかな~と思ってしまいます。

 

絵にギヨマンの想いが詰まっている!
一度見たら記憶に残ると感じた私の印象は、おそらくギヨマンの想いが絵に表現されていたからなのかもしれないですね。

 

ぜひ絵画展でギヨマンの絵を見る機会があったら、この生い立ちや生き方を思い返してみては?

もしかしたらギヨマンの作品から想いが感じられるかもしれませんよ!!

 

※ここで扱っているイラストや作品画像はpublic domainなど掲載可能な素材を使用しています。

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